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宮崎兄弟と辛亥革命

公開日:2011年11月9日

孫文

孫文の写真

1866年、孫文は広東省香山県で生まれました。12歳で長兄の孫眉を頼ってハワイに渡り、西洋文化に触れると、5年後に帰国し、広東・香港の医学校に学びました。

1894年に革命組織・興中会を結成すると、孫文は翌1895年に広東での蜂起を計画しましたが、失敗し亡命を余儀なくされます。しかし、1897年の宮崎滔天との出会いをきっかけに、日本の志士との交流を深めたことで、1905年の中国同盟会の結成に至り、彼はその指導理念として三民主義を唱えました。

孫文を中心とする革命派たちの活動により多くの若者に革命思想が普及した結果、1911年に辛亥革命が勃発します。革命により清朝は倒れ、アジア初の共和国である中華民国が誕生、孫文は臨時大統領に選ばれました。孫文は、1925年3月12日に59歳で亡くなりましたが、宮崎民蔵・滔天兄弟との友情は最後まで続き、孫文自伝には「革命におこたらざる者」として「宮崎兄弟」の名が挙げられています。

 

孫文と滔天集合写真

孫文と滔天集合写真

(1913年)大正2年 孫文革命成功謝礼のため荒尾市上小路宮崎民蔵家を来訪

写真(背景)宮崎兄弟の生家。大正2年3月撮影。再来日した孫文を囲んでの記念撮影。中央左側の背広姿が孫文、その右隣の着物姿が滔天。

背後の梅の木は、現在も生家施設敷地内にあり、樹齢は250年から300年と伝わる。

 

辛亥革命

1840年から1842年のアヘン戦争や、1894年から1895年の日清戦争の結果、清朝は西欧の帝国主義により半植民地化されていきました。中でも日清戦争で生じた膨大な賠償金は、清朝の財政を圧迫し、半植民地化に拍車をかけました。

そのような中、孫文は、清朝による中国支配をくつがえし、新しい政治体制を創設することを目指す革命運動を展開しました。孫文たちは幾度となく蜂起し、ことごとく失敗しましたが、1911年10月10日武昌蜂起の成功をきっかけに、中国全土の革命的蜂起を促しました。これがいわゆる辛亥革命の起こりです。1911年12月29日、孫文は、南京政府臨時大総統に選出され、翌1912年、国号を中華民国と定めました。1912年2月12日に清朝の宣統帝が退位したことで、270年に及ぶ清朝の歴史が終わり、また、アジア初の共和国の誕生は、長きにわたる中国王朝政治の終焉ともなりました。

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