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柳原白蓮(やなぎわらびゃくれん)

公開(こうかい)():2012(ねん)2月(にがつ)7(にち)

純愛(じゅんあい)か、はたまた醜聞(しゅうぶん)か 柳原白蓮(やなぎわらびゃくれん)荒尾(あらお)

大正(たいしょう)時代(じだい)世間(せけん)騒がせ(さわがせ)駆け落ち(かけおち)騒動(そうどう)から「白蓮(びゃくれん)事件(じけん)」として有名(ゆうめい)です。華族(かぞく)(大正天皇(たいしょうてんのう)のいとこ)だった柳原白蓮(やなぎわらびゃくれん)(本名(ほんみょう)・燁子)は、政略(せいりゃく)結婚(けっこん)させられた九州(きゅうしゅう)石炭(せきたん)(おう)伊藤(いとう)(でん)衛門(えもん)から豪邸(ごうてい)与え(あたえ)られ「筑紫(つくし)女王(じょおう)」と呼ば(よば)れました。

 しかし幸せ(しあわせ)結婚(けっこん)生活(せいかつ)ではなく、(おっと)度重なる(たびかさなる)女性(じょせい)問題(もんだい)などによって苦悩(くのう)し、歌人(かじん)であった白蓮(びゃくれん)はそのことを作品(さくひん)にする(なか)出会っ(であっ)東京(とうきょう)帝国(ていこく)大学生(だいがくせい)宮崎(みやざき)龍介(りゅうすけ)(宮崎(みやざき)滔天(とうてん)長男(ちょうなん))と恋仲(こいなか)になり、駆け落ち(かけおち)敢行(かんこう)しました。

 そのとき白蓮(びゃくれん)書い(かい)伊藤(いとう)への絶縁(ぜつえん)(じょう)新聞(しんぶん)掲載(けいさい)され、伊藤(いとう)もまた新聞(しんぶん)反論(はんろん)掲載(けいさい)しましたが、世論(せろん)白蓮(びゃくれん)批判(ひはん)(てき)であり、逆境(ぎゃっきょう)のなかで(こい)貫き通し(つらぬきとおし)ました。結婚(けっこん)()龍介(りゅうすけ)結核(けっかく)患っ(わずらっ)(さい)(その後(そのご)回復(かいふく))、白蓮(びゃくれん)執筆(しっぴつ)活動(かつどう)(おっと)支え(ささえ)更に(さらに)晩年(ばんねん)近く(ちかく)白蓮(びゃくれん)失明(しつめい)しますが、龍介(りゅうすけ)介護(かいご)のもと、作品(さくひん)発表(はっぴょう)続け(つづけ)幸せ(しあわせ)晩年(ばんねん)過ごし(すごし)ました。

柳原白蓮の写真

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