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滔天(とうてん)孫文(そんぶん)筆談(ひつだん)風景(ふうけい)

2011(ねん)10月(じゅうがつ)28(にち)

滔天と孫文の筆談風景の画像(おく)座敷(ざしき)(おくざしき)では、()(にん)(おとこ)対座(たいざ)しています。一人(ひとり)中国(ちゅうごく)革命(かくめい)()で、のちに中華民国(ちゅうかみんこく)という(くに)建てる(たてる)孫文(そんぶん)。もう(いち)(にん)宮崎家(みやざきけ)末子(まっし)寅蔵(とらぞう)(滔天(とうてん))です。広州(こうしゅう)最初(さいしょ)武装(ぶそう)蜂起(ほうき)計画(けいかく)失敗(しっぱい)した孫文(そんぶん)は、明治(めいじ)28(1895)(とし)日本(にっぽん)亡命(ぼうめい)してきました。そして再起(さいき)図る(はかる)ため、ハワイからアメリカ本土(ほんど)向かい(むかい)革命(かくめい)同志(どうし)求め(もとめ)ましたが、あまり成果(せいか)はありませんでした。

 すでに清国(きよくに)政府(せいふ)孫文(そんぶん)懸賞(けんしょう)(きん)1000(げん)お尋ね者(おたずねもの)としており、ロンドンでは清国(きよくに)公使館(こうしかん)(ない)(やく)2週間(しゅうかん)監禁(かんきん)される危機(きき)にあいました。明治(めいじ)30(1897)(とし)9月(くがつ)横浜(よこはま)再来(さいらい)した孫文(そんぶん)同志(どうし)(ちん)(しょう)(しろ)(たく)宮崎(みやざき)滔天(とうてん)初対面(しょたいめん)し、同年(どうねん)11月(じゅういちがつ)滔天(とうてん)一緒(いっしょ)荒尾(あらお)(むら)のこの生家(せいか)にやってきたのでした。この座敷(ざしき)でも中国(ちゅうごく)革命(かくめい)をめぐって、いろいろなことが語り合わ(かたりあわ)れましたが、お互い(おたがい)言葉(ことば)通じ(つうじ)ませんので、ほとんど筆談(ひつだん)でなされました。

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