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宮崎(みやざき)八郎(はちろう)書簡(しょかん)寄贈(きぞう)していただきました

2014(ねん)5月(ごがつ)22(にち)

宮崎(みやざき)八郎(はちろう)書簡(しょかん)寄贈(きぞう)していただきました。

 寄贈(きぞう)していただいた4つの書簡(しょかん)のうち、3(つう)については、荒木(あらき)(きよし)(これ)()により「宮崎(みやざき)八郎(はちろう)史料(しりょう)(ひかえ)」として公表(こうひょう)されているものです。

 明治(めいじ)3(ねん)書か(かか)れた「尊大(そんだい)(けい)(あて)書簡(しょかん)1(つう)については、論文(ろんぶん)などでも確認(かくにん)出来(でき)ないことから、現在(げんざい)分析(ぶんせき)行っ(おこなっ)ているところです。内容(ないよう)明らか(あきらか)になれば、その記述(きじゅつ)内容(ないよう)についての解説(かいせつ)合わせ(あわせ)て、宮崎(みやざき)兄弟(きょうだい)資料(しりょう)(かん)企画(きかく)(てん)行う(おこなう)ことを検討(けんとう)しています。

 寄贈(きぞう)いただいた書簡(しょかん)以下(いか)通り(とおり)です。

  1. 明治(めいじ)3(ねん) 東京(とうきょう)より(ちち)(あて)書簡(しょかん)
  2. 明治(めいじ)3(ねん) 尊大(そんだい)(けい)(あて)書簡(しょかん)
  3. 明治(めいじ)4(ねん) 東京(とうきょう)より(ちち)(あて)書簡(しょかん)
  4. 明治(めいじ)9(ねん) 東京(とうきょう)より(ちち)(あて)書簡(しょかん)

(なお)、この史料(しりょう)については、当初(とうしょ)、この史料(しりょう)神戸(こうべ)()にある孫文(そんぶん)記念(きねん)(かん)持ち込ま(もちこま)れたのですが、「宮崎(みやざき)八郎(はちろう)史料(しりょう)荒尾(あらお)()保存(ほぞん)活用(かつよう)することが適当(てきとう)ではないか」という孫文(そんぶん)記念(きねん)(かん)(さま)配慮(はいりょ)により、荒尾(あらお)()への寄贈(きぞう)実現(じつげん)することとなりました。

今後(こんご)とも(かん)同士(どうし)連携(れんけい)をはかっていきたいと思い(おもい)ます。

 

寄贈していただいた宮崎八郎の書簡の一つの画像




写真(しゃしん)は、寄贈(きぞう)していただいた宮崎(みやざき)八郎(はちろう)書簡(しょかん)一つ(ひとつ)

明治(めいじ)3(ねん)東京(とうきょう)遊学(ゆうがく)のときに、(ちち)宛て(あて)出し(だし)たもの。

上京(じょうきょう)直後(ちょくご)から、明治維新(めいじいしん)政府(せいふ)内部(ないぶ)状況(じょうきょう)注視(ちゅうし)するとともに、外交(がいこう)問題(もんだい)にも()向け(むけ)日本(にっぽん)立国(りっこく)に対する(にたいする)不安(ふあん)強く(つよく)示す(しめす)など、東京(とうきょう)意欲(いよく)(てき)見聞(けんぶん)広めよ(ひろめよ)うとしていたことが伺える(うかがえる)。 

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