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宮崎(みやざき)兄弟(きょうだい)

公開(こうかい)():2021(ねん)1月(いちがつ)1(にち)

宮崎(みやざき)兄弟(きょうだい)

宮崎家(みやざきけ)のルーツと(ちち)長蔵(ちょうぞう)

荒尾(あらお)宮崎家(みやざきけ)歴史(れきし)は、1647(正保(しょうほう)4)(とし)初代(しょだい)正之(まさゆき)肥前(ひぜん)から肥後(ひご)入国(にゅうこく)したことから始まり(はじまり)ます。

1667(寛文(かんぶん)7)(とし)正之(まさゆき)肥後(ひご)(はん)から(いち)(りょう)一疋(いっぴき)郷士(ごうし)((よろい)(いち)(りょう)(うま)(いち)(とう)両刀(りょうとう)所持(しょじ)認め(みとめ)られ、有事(ゆうじ)以外(いがい)農業(のうぎょう)従事(じゅうじ)する武士(ぶし))に任じ(にんじ)られました。やがて他国御横目役(たこくおよこめやく)として肥前(ひぜん)方面(ほうめん)探索(たんさく)情報(じょうほう)収集(しゅうしゅう)従事(じゅうじ)し、知行(ちぎょう)20石(にじゅうごく)受け(うけ)その後(そのご)8代目(だいめ)政明(まさあき)まで世襲(せしゅう)郷士(ごうし)として玉名(たまな)(ぐん)(ない)(しょ)(やく)務め(つとめ)ました。

兄弟(きょうだい)(ちち)長蔵(ちょうぞう)(政賢(まさたか))は9代目(だいめ)にあたり、当時(とうじ)宮崎家(みやざきけ)荒尾(あらお)(むら)随一(ずいいち)地主(じぬし)でした。長蔵(ちょうぞう)学問(がくもん)のみならず、軍学(ぐんがく)(ほう)(がく)剣術(けんじゅつ)学び(まなび)宮本(みやもと)武蔵(むさし)完成(かんせい)させた二天(にてん)一流(いちりゅう)武芸者(ぶげいしゃ)で、九州(きゅうしゅう)での修行(しゅぎょう)では飽き(あき)足らず(たらず)全国(ぜんこく)武者(むしゃ)修行(しゅぎょう)し、子ども(こども)たちにも伝授(でんじゅ)しています。また、地主(じぬし)としての長蔵(ちょうぞう)は、日頃(ひごろ)から村内(そんない)人々(ひとびと)にも身分(みぶん)分け(わけ)隔て(へだて)なく接し(せっし)正月(しょうがつ)()(きゃく)待つ(まつ)にも全て(すべて)到着(とうちゃく)(じゅん)受け(うけ)当時(とうじ)としては「四民(しみん)平等(びょうどう)」の先覚(せんかく)(しゃ)でもありました。こうした長蔵(ちょうぞう)教え(おしえ)宮崎(みやざき)兄弟(きょうだい)輩出(はいしゅつ)することにつながりました。

宮崎(みやざき)八郎(はちろう) (()(さと))1851(ねん)から1877(ねん)

宮崎八郎の写真

自由(じゆう)民権(みんけん)散っ(ちっ)天性(てんせい)革命(かくめい)()

宮崎(みやざき)八郎(はちろう)(はちろう)は、嘉永(かえい)4(1851)(とし)長蔵(ちょうぞう)二男(じなん)として荒尾(あらお)(むら)(現在(げんざい)荒尾(あらお)())に生まれ(うまれ)ました。文治元(ぶんじがん)(1864)(とし)元服(げんぷく)して(ちち)政賢(まさたか)と共に(とともに)長州(ちょうしゅう)征伐(せいばつ)出陣(しゅつじん)熊本(くまもと)時習館(じしゅうかん)(じしゅうかん)に学び(まなび)明治(めいじ)3(ねん)上京(じょうきょう)遊学(ゆうがく)すると明治(めいじ)(しん)政府(せいふ)専制(せんせい)政治(せいじ)への怒り(いかり)独立(どくりつ)(こく)日本(にっぽん)将来(しょうらい)への危機(きき)感じ(かんじ)自由(じゆう)民権(みんけん)をかかげて活動(かつどう)開始(かいし)しました。そのころ、中江(なかえ)兆民(ちょうみん)の『(みん)(やく)(ろん)』に感銘(かんめい)し、明治(めいじ)8(1875)(とし)自由(じゆう)民権(みんけん)思想(しそう)をかかげた植木(うえき)学校(がっこう)設立(せつりつ)しましたが、教育(きょういく)内容(ないよう)過激(かげき)さゆえ、(けん)によって僅か(わずか)半年(はんとし)閉校(へいこう)させられました。

西南(せいなん)戦争(せんそう)起こる(おこる)と、民権(みんけん)(とう)同志(どうし)たちと熊本(くまもと)協同(きょうどう)(たい)結成(けっせい)し、西郷(さいごう)(ぐん)加わり(くわわり)ましたが、実際(じっさい)には西郷(さいごう)思想(しそう)一致(いっち)していた(わけ)ではなく、一旦(いったん)西郷(さいごう)天下(てんか)取ら(とら)せ、その後(そのご)西郷(さいごう)戦う(たたかう)つもりだと述べ(のべ)たと伝わっ(つたわっ)ています。

明治(めいじ)10(1877)(とし)4月(しがつ)6(にち)八代萩原堤(やつしろはぎわらのつつみ)(はぎわらづつみ)にて27(さい)戦死(せんし)しましたが、(かれ)自由(じゆう)平等(びょうどう)愛する(あいする)精神(せいしん)兄弟(きょうだい)たちに引き継が(ひきつが)れました。

宮崎(みやざき)民蔵(たみぞう)((めぐ)(こう))1865(ねん)から1928(ねん)

宮崎民蔵の写真

土地(とち)復権(ふっけん)生涯(しょうがい)使命(しめい)とした哲人(てつじん)

宮崎(みやざき)民蔵(たみぞう)(たみぞう)は、慶応元(けいおうがん)(1865)(とし)長蔵(ちょうぞう)六男(ろくなん)として生まれ(うまれ)ました。明治(めいじ)18(1885)(とし)上京(じょうきょう)して中江(なかえ)兆民(ちょうみん)仏学塾(ふつがくじゅく)入り(はいり)フランス思想(しそう)学び(まなび)ました。その後(そのご)農村(のうそん)貧し(まずし)さにあえぐ農民(のうみん)をみて土地(とち)制度(せいど)疑問(ぎもん)抱き(いだき)土地(とち)所有(しょゆう)人類(じんるい)基本(きほん)(てき)人権(じんけん)一つ(ひとつ)ではないかと気づき(きづき)ました。

土地(とち)平均(へいきん)分配(ぶんぱい)することを使命(しめい)とし、明治(めいじ)30(1897)(とし)には欧米(おうべい)諸国(しょこく)への遊説(ゆうぜい)()につき、識者(しきしゃ)論じ(ろんじ)4(ねん)()帰国(きこく)しました。明治(めいじ)35(1902)(とし)土地(とち)復権(ふっけん)同志(どうし)(かい)組織(そしき)しましたが、明治(めいじ)43(1910)(とし)大逆事件(たいぎゃくじけん)民蔵(たみぞう)自身(じしん)にも疑い(うたがい)がかけられ、生家(せいか)家宅(かたく)捜査(そうさ)受け(うけ)国内(こくない)での運動(うんどう)中断(ちゅうだん)しました。

そこで明治(めいじ)45(1912)(とし)、「平均(へいきん)地権(ちけん)」の思想(しそう)同じく(おなじく)する孫文(そんぶん)によって建国(けんこく)されたアジア(はつ)共和(きょうわ)(こく)である中華民国(ちゅうかみんこく)土地(とち)復権(ふっけん)実現(じつげん)託し(たくし)孫文(そんぶん)活動(かつどう)支援(しえん)するため大陸(たいりく)渡り(わたり)ました。孫文(そんぶん)最期(さいご)看取っ(みとっ)(のち)も、復権(ふっけん)運動(うんどう)資金(しきん)獲得(かくとく)のため活動(かつどう)しましたが、上海(しゃんはい)事故(じこ)遭い(あい)昭和(しょうわ)3(1928)(とし)63(さい)亡くなり(なくなり)ました。

宮崎(みやざき)彌蔵(やぞう)(管仲甫(かんちゅうほ))1867(ねん)から1896(ねん)

宮崎彌蔵の写真

理想(りそう)(くに)中国(ちゅうごく)革命(かくめい)にみた思想家(しそうか)

宮崎(みやざき)彌蔵(やぞう)(やぞう)は、慶応(けいおう)3(1867)(とし)長蔵(ちょうぞう)七男(しちなん)として生まれ(うまれ)ました。明治(めいじ)18(1885)(とし)大阪(おおさか)東京(とうきょう)遊学(ゆうがく)明治(めいじ)21(1888)(とし)には熊本(くまもと)()(やぶ)(うち)住み(すみ)病気(びょうき)療養(りょうよう)傍ら(かたわら)民蔵(たみぞう)滔天(とうてん)(とうてん)、友人(ゆうじん)(たち)哲学(てつがく)社会(しゃかい)問題(もんだい)(とう)激しく(はげしく)論じ(ろんじ)、その会合(かいごう)は「(やぶ)内組(ないそ)」と呼ば(よば)れました。

彌蔵(やぞう)は、自由(じゆう)民権(みんけん)思想(しそう)根幹(こんかん)とした革命(かくめい)(てき)アジア主義(しゅぎ)唱え(となえ)、「西力東漸(せいりょくとうぜん)」の危機(きき)瀕する(ひんする)アジア(しょ)民族(みんぞく)連帯(れんたい)(ぜん)世界(せかい)人権(じんけん)回復(かいふく)をめざし、まずはその第一歩(だいいっぽ)として、革命(かくめい)によって中国(ちゅうごく)理想(りそう)(くに)築く(きずく)ことを願い(ねがい)ました。そのため自ら(みずから)中国人(ちゅうごくじん)になりきり、横浜(よこはま)中華(ちゅうか)商館(しょうかん)弁髪(べんぱつ)(べんぱつ)を結い(ゆい)()管仲甫(かんちゅうほ)(かん・ちゅうほ)と称し(しょうし)中国(ちゅうごく)言語(げんご)習俗(しゅうぞく)研究(けんきゅう)励み(はげみ)ました。

明治(めいじ)29(1896)(とし)孫文(そんぶん)一派(いっぱ)(ちん)(しょう)(しろ)(ちん・しょうはく)と出会い(であい)宿願(しゅくがん)達成(たっせい)(だい)1()として喜び(よろこび)ましたが、同年(どうねん)結核(けっかく)倒れ(たおれ)、「大丈夫(ますらお)(ますらお)ノ真心(まごころ)(まごころ)コメシ梓弓(あずさゆみ)(あずさゆみ)放タデ(はなたで)()スルコトノクヤシキ」の辞世(じせい)()残し(のこし)て、わずか29(さい)亡くなり(なくなり)ました。この中国(ちゅうごく)革命(かくめい)に対する(にたいする)情熱(じょうねつ)(おとうと)滔天(とうてん)引き継が(ひきつが)れることになります。

宮崎(みやざき)滔天(とうてん)(寅蔵(とらぞう))1871(ねん)から1922(ねん)

宮崎滔天の写真

孫文(そんぶん)助け(たすけ)革命(かくめい)挺身(ていしん)した侠の(ひと)

宮崎(みやざき)滔天(とうてん)(とうてん)は、明治(めいじ)4(1871)(とし)長蔵(ちょうぞう)八男(はちなん)として生まれ(うまれ)ました。大江義塾(おおえぎじゅく)(おおえぎじゅく)から東京(とうきょう)専門(せんもん)学校(がっこう)(現在(げんざい)早稲田大学(わせだだいがく))、そして長崎(ながさき)カブリ英和(えいわ)学校(がっこう)(現在(げんざい)長崎(ながさき)ウエスレヤン大学(だいがく))と多感(たかん)青春(せいしゅん)時代(じだい)過ごし(すごし)たのち、(あに)彌蔵(やぞう)説く(とく)革命(かくめい)(てき)アジア主義(しゅぎ)共感(きょうかん)し、明治(めいじ)25(1892)(とし)上海(しゃんはい)()踏み(ふみ)ました。そして彌蔵(やぞう)死後(しご)理想(りそう)同じく(おなじく)する孫文(そんぶん)との出会い(であい)導か(みちびか)れた滔天(とうてん)は、明治(めいじ)30(1897)(とし)(あき)宮崎家(みやざきけ)孫文(そんぶん)招き(まねき)革命(かくめい)向け(むけ)ての熱い(あつい)思い(おもい)固い(かたい)友情(ゆうじょう)育み(はぐくみ)ました。

明治(めいじ)33(1900)(とし)恵州(けいしゅう)(けいしゅう)蜂起(ほうき)(ほうき)などの様々(さまざま)失敗(しっぱい)挫折(ざせつ)経験(けいけん)し、浪曲(ろうきょく)()(ろうきょくし)に転身(てんしん)桃中軒(とうちゅうけん)雲右衛門(くもえもん)(とうちゅうけんくもえもん)に弟子(でし)入り(いり)し、桃中軒牛右衛門(とうちゅうけんうしえもん)(とうちゅうけんうしえもん)として孫文(そんぶん)革命(かくめい)運動(うんどう)(うた)にして全国(ぜんこく)をまわりました。明治(めいじ)35(1902)(とし)浪曲(ろうきょく)()になるにあたりそれまでの自ら(みずから)半生(はんせい)著し(あらわし)た『(さん)(じゅう)(さん)(ねん)()(ゆめ)(さんじゅうさんねんのゆめ)』で当時(とうじ)無名(むめい)だった孫文(そんぶん)紹介(しょうかい)し、日本(にっぽん)留学(りゅうがく)していた中国人(ちゅうごくじん)感銘(かんめい)与え(あたえ)ました。この(ほん)中国語(ちゅうごくご)(ばん)出版(しゅっぱん)されると、たちまち孫文(そんぶん)()中国人(ちゅうごくじん)(たち)()知ら(しら)れるところとなり、明治(めいじ)38(1905)(とし)7月(しちがつ)孫文(そんぶん)黄興(こうこう)(こうこう)の()握ら(にぎら)せました。それを皮切り(かわきり)に、それまで主義(しゅぎ)主張(しゅちょう)異なっ(ことなっ)ていた中国(ちゅうごく)革命(かくめい)()たちの()握ら(にぎら)せることに成功(せいこう)し、留学生(りゅうがくせい)中心(ちゅうしん)とした中国(ちゅうごく)同盟(どうめい)(かい)(ちゅうごくどうめいかい)の結成(けっせい)大きく(おおきく)貢献(こうけん)しました。

明治(めいじ)44(1911)(とし)10月(じゅうがつ)辛亥革命(しんがいかくめい)勃発(ぼっぱつ)知らせ(しらせ)受け(うけ)滔天(とうてん)革命(かくめい)同志(どうし)助ける(たすける)ため中国(ちゅうごく)渡り(わたり)香港(ほんこん)欧米(おうべい)から帰国(きこく)した孫文(そんぶん)をデンバー(ごう)船上(せんじょう)迎え(むかえ)ました。辛亥革命(しんがいかくめい)成功(せいこう)ののち、大正(たいしょう)2(1913)(とし)に、国賓(こくひん)として日本(にっぽん)近代(きんだい)()産業(さんぎょう)視察(しさつ)訪れ(おとずれ)孫文(そんぶん)長崎(ながさき)出迎え(でむかえ)日本(にっぽん)各地(かくち)への訪問(ほうもん)随行(ずいこう)し、荒尾(あらお)宮崎家(みやざきけ)にも同行(どうこう)しました。その後(そのご)孫文(そんぶん)との交友(こうゆう)関係(かんけい)続き(つづき)ましたが、大正(たいしょう)11(1922)(とし)(やまい)のため51(さい)亡くなり(なくなり)ました。

宮崎家(みやざきけ)系図(けいず)

宮﨑家の家系図の画像

宮崎家(みやざきけ)荒尾(あらお)定住(ていじゅう)したのは、江戸(えど)初期(しょき)言わ(いわ)れています。初代(しょだい)正之(まさゆき)荒尾(あらお)()(なが)(そう)庄屋(しょうや)古沢(ふるさわ)弥左衛門(やざえもん)(むすめ)をめとったのが、宮崎家(みやざきけ)始まり(はじまり)です。寛文(かんぶん)7(1667)(とし)肥後(ひご)(こく)細川(ほそかわ)藩侯(はんこう)より郷士(ごうし)任じ(にんじ)られ、(よく)寛文(かんぶん)8(1668)(とし)肥前島原藩主高力家(ひぜんしまばらはんしゅこうりきけ)改易(かいえき)につき、外聞(とぎき)として島原(しまばら)偵察(ていさつ)状況(じょうきょう)報告(ほうこく)しました。この偵察(ていさつ)任務(にんむ)が、地域(ちいき)にとらわれない活動(かつどう)をする宮崎家(みやざきけ)家系(かけい)(みなもと)となっているといわれています。

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