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宮崎家(みやざきけ)女性(じょせい)たち

公開(こうかい)():2021(ねん)1月(いちがつ)1(にち)

宮崎(みやざき)サキ(兄弟(きょうだい)(はは))1829(ねん)から1909(ねん)

宮崎サキの写真

サキは(げん)長洲(ながす)(まち)近郊(きんこう)素封(そほう)()永屋家(ながやけ)長女(ちょうじょ)として生まれ(うまれ)長蔵(ちょうぞう)との()八男(はちなん)(さん)(じょ)をもうけました。武芸者(ぶげいしゃ)であった(おっと)長蔵(ちょうぞう)気風(きふう)受け(うけ)、「(たたみ)(うえ)死する(しする)男子(だんし)なによりの恥辱(ちじょく)なり」と子ども(こども)たちに語っ(かたっ)育て(そだて)たといいます。

また、民蔵(たみぞう)彌蔵(やぞう)滔天(とうてん)が、革命(かくめい)成し遂げる(なしとげる)ために日清戦争(にっしんせんそう)徴兵(ちょうへい)逃れる(のがれる)方法(ほうほう)について話し(はなし)あっていたのを聴き(きき)つけたサキは、「百姓(ひゃくしょう)()までお(くに)のためにと喜ん(よろこん)(せい)くのに、(おのれ)()ではない。この家の子(いえのこ)ではない。お前(おまえ)らを追い出し(おいだし)割腹(かっぷく)し、ご先祖(せんぞ)父上(ちちうえ)申し訳(もうしわけ)する。()ていけ!」と、怒り(いかり)打ち(うち)震え(ふるえ)激しく(はげしく)泣き崩れ(なきくずれ)たことがありました。しかし兄弟(きょうだい)が、戦争(せんそう)行く(いく)のではなく、それぞれの目標(もくひょう)達し(たっし)(じん)のために働く(はたらく)ことでお(くに)役に立つ(やくにたつ)のが目的(もくてき)であることを告げる(つげる)と、サキは「それで安心(あんしん)した。例え(たとえ)そのことで国賊(こくぞく)(はは)嘲り(あざけり)罵ら(ののしら)れても我慢(がまん)する」と言い(いい)切っ(きっ)たといいます郷士(ごうし)として、宮崎家(みやざきけ)人間(にんげん)としての誇り(ほこり)子ども(こども)たちに()持っ(もっ)諭し(さとし)人物(じんぶつ)といえます。

 

宮崎(みやざき)ツチ(滔天(とうてん)(つま))1871(ねん)から1942(ねん)

宮崎ツチの写真

ツチは(げん)玉名(たまな)()天水(てんすい)(まち)豪農(ごうのう)前田(まえだ)案山子(かかし)(さん)(じょ)として生まれ(うまれ)ました。(あね)二女(じじょ)のツナは夏目(なつめ)漱石(そうせき)の「草枕(くさまくら)」のヒロイン・那美(なみ)のモデルであることが知ら(しら)れています。

前田家(まえだけ)民権(みんけん)運動(うんどう)のメッカであり、その家風(かふう)受け(うけ)育っ(そだっ)たツチは岸田(きしだ)俊子(としこ)(女権(じょけん)拡張(かくちょう)運動(うんどう)()作家(さっか))が前田(まえだ)()訪れ(おとずれ)(さい)、11(さい)で「学問(がくもん)(すすむ)ム」の(だい)演説(えんぜつ)をしたという(はなし)残っ(のこっ)ています。梅花(ばいか)女学校(じょがっこう)((げん)大阪(おおさか)()梅花(ばいか)学園(がくえん))などで学び(まなび)早朝(そうちょう)有明海(ありあけかい)砂浜(すなはま)裸馬(はだかうま)乗っ(のっ)駆ける(かける)ことを日課(にっか)にしていたという女性(じょせい)でもありました。

滔天(とうてん)恋愛(れんあい)結婚(けっこん)結ば(むすば)れた(のち)は、生活(せいかつ)追わ(おわ)れながら革命(かくめい)資金(しきん)調達(ちょうたつ)することに明け暮れ(あけくれ)ました。滔天(とうてん)家計(かけい)相談(そうだん)をしても「革命(かくめい)のための(きん)出来る(できる)けれども、妻子(さいし)養ふ金(やしなうかね)出来(でき)ない」と顧み(かえりみ)なかったため、ツチは下宿(げしゅく)()石炭(せきたん)販売(はんばい)石灰(せっかい)販売(はんばい)などを営み(いとなみ)ましたがいずれも上手く(うまく)いきませんでした。

1897(明治(めいじ)30)(とし)孫文(そんぶん)宮崎家(みやざきけ)滞在(たいざい)した(さい)は、ミイとともに「刺身(さしみ)味噌汁(みそしる)()(さかな)や、お寿司(すし)(うなぎ)や、出来る(できる)だけの努力(どりょく)払っ(はらっ)て、ありつたけのご馳走(ごちそう)をしました」と回顧(かいこ)しています。

(こころざし)遂げよ(とげよ)うと奔走(ほんそう)する(おっと)滔天(とうてん)尽くし(つくし)続け(つづけ)たツチですが、そのさまは、同士(どうし)(いち)(にん)であったとも言える(いえる)でしょう。

 

宮崎(みやざき)ミイ(民蔵(たみぞう)(つま))1873(ねん)から1972(ねん)

宮崎ミイの写真

ミイは、三池(みいけ)(むら)((げん)大牟田(おおむた)())に立花家(たちばなけ)次女(じじょ)として生まれ(うまれ)ました。立花家(たちばなけ)柳川(やながわ)(はん)家老(かろう)で、ミイの(あに)小一郎(こいちろう)は、民蔵(たみぞう)学ん(まなん)(ぎん)(すい)()(じゅく)塾長(じゅくちょう)であり、民蔵(たみぞう)親しい(したしい)関係(かんけい)でした。民蔵(たみぞう)自ら(みずから)立花家(たちばなけ)出向き(でむき)、ミイとの結婚(けっこん)決め(きめ)()たというエピソードが残っ(のこっ)ています。

宮崎家(みやざきけ)孫文(そんぶん)滞在(たいざい)した(さい)民蔵(たみぞう)欧米(おうべい)見学(けんがく)旅行(りょこう)(ちゅう)留守(るす)であり、ミイは滔天(とうてん)(つま)・ツチとともに孫文(そんぶん)をもてなしました。また、1910(明治(めいじ)43)(とし)大逆事件(たいぎゃくじけん)容疑(ようぎ)民蔵(たみぞう)掛かっ(かかっ)たとき、民蔵(たみぞう)(きょう)(じょう)((げん)ソウル)にいて不在(ふざい)にしていたため、ミイが代わり(かわり)取り調べ(とりしらべ)受け(うけ)ています。革命(かくめい)資金(しきん)のために借金(しゃっきん)重ね(かさね)田畑(たはた)(なん)(じゅう)にも抵当(ていとう)入り(はいり)、ミイが債権(さいけん)(しゃ)囲ま(かこま)れることも多々(たた)あったといいます。当主(とうしゅ)民蔵(たみぞう)留守(るす)がちにする(なか)、ミイが宮崎家(みやざきけ)支え(ささえ)ていたのです。

 

宮崎(みやざき)燁子[みやざきあきこ](柳原白蓮(やなぎわらびゃくれん)/滔天(とうてん)長男(ちょうなん)龍介(りゅうすけ)(つま))1885(ねん)から1967(ねん)

宮崎あきこの写真

筑紫(つくし)女王(じょおう)」と讃え(たたえ)られた燁子(あきこ)は、伯爵(はくしゃく)柳原前光(やなぎわらさきみつ)妾腹(しょうふく)()として生まれ(うまれ)ました。(ぜん)(ひかり)(いもうと)大正天皇(たいしょうてんのう)生母(せいぼ)にあたり、大正天皇(たいしょうてんのう)と燁子はいとこ同士(どうし)にあたります。

16(さい)北小路資武(きたのこうじすけたけ)結婚(けっこん)させられるも21(さい)離婚(りこん)。27(さい)のとき25(さい)年上(としうえ)炭鉱(たんこう)(おう)伊藤伝右衛門(いとうでんえもん)再婚(さいこん)

燁子は北小路家(きたのこうじけ)から離婚(りこん)したのち、歌人(かじん)国文学(こくぶんがく)(しゃ)佐々木(ささき)信綱(のぶつな)師事(しじ)し、歌人(かじん)として知ら(しら)れるようになっていました。伝右(でんね)衛門(えもん)との結婚(けっこん)()の1918(大正(たいしょう)7)(とし)雑誌(ざっし)解放(かいほう)」に発表(はっぴょう)した戯曲(ぎきょく)指鬘外道(しまんげどう)を通じて(をつうじて)知り合っ(しりあっ)たのが宮崎(みやざき)龍介(りゅうすけ)滔天(とうてん)長男(ちょうなん)でした。

1921(大正(たいしょう)10)(とし)10月(じゅうがつ)23(にち)朝日新聞(あさひしんぶん)に燁子から伝右(でんね)衛門(えもん)への絶縁(ぜつえん)(じょう)公開(こうかい)されます。姦通(かんつう)(ざい)があった当時(とうじ)燁子龍介(りゅうすけ)とともに命がけ(いのちがけ)駆け落ち(かけおち)したのでした。その後(そのご)離婚(りこん)成立(せいりつ)し、燁子は龍介(りゅうすけ)結婚(けっこん)します。

龍介(りゅうすけ)結核(けっかく)倒れ(たおれ)(とき)は燁子が家計(かけい)支え(ささえ)晩年(ばんねん)視力(しりょく)(しつ)ましたが、龍介(りゅうすけ)介護(かいご)のもと穏やか(おだやか)幸福(こうふく)生活(せいかつ)送っ(おくっ)たと伝わっ(つたわっ)ています。

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